MAU LIFE LOG <ムサビ通信で学んだ記録>

【マウ・ライフ・ログ】サラリーウーマンをしながら、ずっと学びたかったデザインを学ぼうと一念発起。美大通信課程の2年次に編入、人生2回目の大学生活を送る。現在3年生。目標はアイデアを形にする力を手に入れることゆえ、卒業するかは未定。仕事と大学の両立に苦労しつつ、学ぶ喜びを噛みしめる。

最初からゴールに「たまたま居る」ことと、紆余曲折を経て様々な景色を見た後に「到達する」ことの違い。

最近テンション高めの記事をつらつら綴っているが、多分、あとで見直したら恥ずかしい笑。テンション高めに書いておきながら、その内どんでん返しで酷い状況になる可能性は十分にあるし、もしそうなると、その後は落差がとてつもない文章になるだろう。…けれど、そういう可能性も踏まえて、あえてそのままにしている。その時その時自分がどう感じ、どう考え、どう動いたか。その1つ1つのプロセスこそ貴重だし、その瞬間瞬間を記録したい気持ちが最近は大きい。

 

そもそも、物事とというのは一過性の要素が多くあるのが普通だ。ここで1つ少し有名な小話を紹介したい。出典が定かではないのだが、「メキシコの漁師の話」という、知ってる人は知っている小話だ。細かな個所が異なるバージョンもあるようだが、一番定番と思われるものを引用して紹介したい。

 

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。


メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきました。その魚はなんとも生きがいい。それをふと見たアメリカ人旅行者はメキシコ人の漁師に思わずこう言った。

「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの?」

すると漁師は

「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。

アメリカ人の旅行者が

「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」

と言うと、漁師は自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの?」


と旅行者が聞くと、漁師は、

「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。

そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。

「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」

「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」

「それからどうなるの?」

「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、

「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」

「それで?」

「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」

 

これを読んでどう思うだろうか?

 

最後のセリフは皮肉を効かせた内容となっていて、「人生20年も25年も費やして沢山働いて偉くなって、結果、平穏な日々を手に入れることが出来る。ただし、実はそれは最初からすぐそこにある幸せである。気付かない人が多いだけで。」ということだと思う。

 

実は私はこれをかなり前に読んだ。当時は仕事で悩んでいたこともあり、「仕事とはなんだろうか…もしこの話のように最後は田舎でゆっくりとすることが幸せと思っているのなら、田舎に行かずに都会で我武者羅に働くことの意味とは何なのだろうか。もしかしたらとんでもなく馬鹿げたことをしているのではないだろうか。」と不安に駆られたのだった*1

 

しかしその後時を経て思ったのは、田舎の漁師、田舎を夢見るMBAホルダー、どちらも「正解」であるということ。田舎の漁師は今の生活を自分の人生として受け入れ平穏に生きている。それはそれで良いことだ。田舎を夢見るMBAホルダーは、話の中ではオチに使われているようだが、私はこの考えも生き方も良いと思う。なぜなら、もしこのMBAホルダーが言うような生き方をしたとき、その経験を通して感じること、考えること、見る景色、出会う人々、喜び、苦しみ、全部価値があると思うからだ。また、目標設定が間違っている可能性はあるにせよ、ある目的に向かって努力するということそのものは、意義がある行為だと思う。

田舎の漁師の生き方を否定するわけでは全く無いが、ずっと同じ場所に留まり、何の挑戦もせず、欲しいもののために努力したり苦しんだりもせず、得られる喜び失う悲しみも学ばず、やがて年老いるだけの生活の方が私にはよっぽどつまらない。同じ場所に住むにしても、最初からゴールに「たまたま居る」ことと、紆余曲折を経て様々な景色を見た後に「到達する」ことは全く意味が違う。

繰り返すが、ここに出てくる田舎の漁師の生き方を否定するわけでは全く無い。仮にこの田舎の漁師が、人生最初に時点でじっくりじっくりと考え、これこそが自分のしたい生活だ、自分の人生はこういう風に暮らすことに意味があると考えてその暮らしをしているのならば、実は凄く素晴らしい選択だと思う。要は、「自分が何を望んでいるか」を知り「主体的に考えて動いたかどうか」だ。田舎の漁師が人生の最初に時点で自分の望んでいるものを知ることが出来、すぐにその望んだ生活を出来ていたなら、確かにそれは素晴らしい。

 

大前提として、成功しようが失敗しようが遠回りしようがなんだろうが、主体的に生きることにこそ意味がある。と、私は思う。

 

だから、主体的でさえあれば、うまくいっていようが、その後失敗しようが、そのプロセスには価値があり、記録するに値する。この瞬間この瞬間でしか感じられないものがある。それを記録しておきたい。

 

*1:「田舎」というのは例えなので、田舎暮らしをしたくてこのように考えたわけではない。

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